まさか自分が”子供部屋オジサン”になるなんて・・・
21年間、自動車関係の会社でまじめに働き、労働組合の委員長まで務めた私が、今は実家で無職、収入ゼロ
いろんなことが重なって、気づいたらこうなってました
笑えるようで笑えない
たぶん他にも同じように悩んでる人がいるんじゃないかと思い、正直に書いてみます
1.労働組合委員長になるまでの道のり
会社に入って最初の2~3年は車通勤、その後5~6年は一人暮らしをしていた
20代後半からは実家に戻り、家族との同居生活がスタートした
30歳で労働組合の委員長に就任
それからは、仕事と組合活動の両立で毎日が大変だった
夜遅くに帰るのが当たり前で、月に2~3回は県外への一泊二日出張
休日は心と体の電池をリセットするために、スロットでストレス発散
恋愛もゼロじゃなかったけど、「会う時間も気力もない」付き合うまでに至らないまま、自然消滅のような関係が多かった
そんな生活だったから、実家にいても家族と深い会話をすることもなく、「ただ寝に帰ってるだけ」のような日々だった
2.忙殺される毎日、心がすり減っていった理由
はっきり言って、労働組合の委員長は孤独な仕事だった
組合と聞くと「発言力があってかっこいい」と思われがちかもしれないが、実際には地道で終わりの無い業務の連続だ
賃金交渉や職場環境の改善提案、組合員への説明資料の作成に日々追われる
交渉のたびに経営側との綿密な事前準備が必要で、「組合なんて別に必要ない」と言われたことすらあった
一方、組合員からも「組合費は何に使ってるのか?」「オルグ(職場訪問)が甘い」などと疑問や不満が向けられる
どれだけ頑張っても、感謝より批判が先に来る世界だった
本音は「だったら委員長おまえがやれ」と言いたかったが、絶対に言わないと誓っていた
「自分がやらなきゃ誰がやる」と、自分に言い聞かせて続けてきた
30歳で委員長に就任した当時、組合員の多くは年上
やりたかったわけでもなく、他に引き受け手がいなかった。そんな中で何年も続けた
そして仕事ではパワハラ
組合活動をしながらの二足のわらじ生活にも関わらず、「それでも組合委員長か」などと言う上司の態度
その上司が一度異動したものの、数年後にまた同じ部署に戻ってきたとき、自分の中の何かが限界に達した
加えて、同じ部署の後輩がひどい口臭の持ち主で、会話を交わすだけで精神が削られていく日々
地味に見えるかもしれないが、毎日のストレスとしては相当だった
基本給は約23万円
お金の問題ではないが、毎日車で50分かけて通う価値があるのか。自問自答するようになった
「これは、もう限界だ」
そう気づいたとき、自分の中で”退職”という選択肢が現実味を帯びてきた
3.退職後、不安がなかった理由と本音
会社を辞めた後、不思議と不安は感じなかった
むしろ、日々やるべきことが山積みで、気持ちが追いつかなかったのだと思う
年金や健康保険の手続きをするために市役所へ足を運び、失業保険の申請のためにハローワークへ
社会保障の仕組みと、生活を支える制度を”利用する側”として学ぶ日々だった
慌ただしい中で、「とにかく動かなくては」という気持ちだけで前に進んでいた
しかし、心の奥では「この先、自分はどうなっていくんだろう」という漠然とした不安が静かにあった
焦りを誤魔化すかのように、気づけばスロットに通う日々が増えていった。当然、収支はマイナス
それでも、現実と向き合うのが怖くて、どこかで逃げ場を求めていたのかもしれない
そんな中で、フリマアプリの出品を始めたり、YouTubeの発信にチャレンジしたり、アフィリエイトブログの運営も試みた
「何かを始めたい」という気持ちはあった けれど、その”何か”をまだ掴みきれていなかった
そんな矢先のことだった
10日間にわたって続いた高熱と激しい頭痛
まるで心と体が「少し立ち止まれ」と言ってきたようだった
この体験については、別の記事【バス釣りをやめた理由。誰にも言えなかった本当の話】に詳しく綴っている
それもまた、自分の人生に大きな影響を与えた出来事の一つだった
4.個人で生きると決めた。だが、現実は甘くなかった
2020年10月、21年間務めた会社を退職した
やりきったという気持ちと、もう戻りたくないという確信があった
これからは、自分の時間を自分のために使って生きていこう。そう思った
2021年1月、アフィリエイトブログを始めた
「自分で稼ぐ力をつけたい」と思ったのが理由だった
毎日記事を書き、収益化を夢見てアクセス解析に一喜一憂
だが、現実は厳しかった。PVは思うように伸びず、収益もごくわずか
2022年9月、株式投資に出会う
「デイトレード」という世界に惹かれた
少ない資金でも、勉強と努力で勝負できるかもしれない・・・そう思った
書籍を読み、YouTubeで手法を学び、毎日チャートと向き合った
だが、翌月の10月
突然の10日間以上続いた高熱と頭痛
このとき、長年続けて趣味のバス釣りを辞めた
そこから先、アフィリエイトブログもデイトレードも、結果が出ない日々が続く
ブログは更新してもアクセスは伸びず、トレードもほぼ毎月マイナス
「個人で生きる」と決めたはずだったが、現実の厳しさに直面する毎日だった
それでも、戻ろうとは思わなかった
会社に、組織に、属する人生には
うまくいかなくても、自分の力で生きる道を選び続けている
5.実家暮らしのストレスと母とのすれ違い
会社を辞めたあと、収入が無く実家に居るしかなかった
だが、実家暮らしは「楽」でも「安心」でもなかった。特に母との関係は、少しずつストレスのもとになっていった
自分が階段を下りると、なぜかそのタイミングでテレビの音が消え、母が何かしら動き始める
まるでこちらの行動を見計らっていたかのように重なるタイミングが続いた
風呂から上がったとき、コーヒーを入れに下りたとき、ウォーキングの帰り道・・・何気ない行動のたびに、「またか」と感じてしまう
もちろん何度も伝えた。「なんでいつも重なる?」「偶然じゃないよな?」
返ってくるのは決まって「たまたま」「偶然」という言葉
ときには逆ギレされることさえあった
こちらの不快な気持ちは一切届かない。次第に、家の中でも常に自分の部屋にこもるようになった
本来、家はもっと安心できる場所のはずだ。自分にとっての「家」は、常に気を張らなければならない場所になっていた
家族だからこそ難しい。距離が近いからこそ、遠慮も消え、誤解や摩擦も生まれやすい
「出て行くしかないのか」
何度もそう思ったが、デイトレの収入はプラスにすらならない
簡単に一人暮らしに踏み切れる状況ではない
そんな現実の中で、少しでも心を守るために「静かに距離をとること」を自分に許した
すべてに反応せず、感情に巻き込まれず、自分を落ち着かせること。
なんて、難しいことを言ったが結局は【生活音を立てない】ように、そろりそろり動く
それが、今できる最大の自衛だった
6.「子供部屋オジサン」と呼ばれても、自分の人生は自分で決める
いつしか、「子供部屋オジサン」という言葉が、自分の中で引っかかるようになった
社会の目、世間の評価–まるで「実家に住んでいる=負け組」と言わんばかりの言葉だ
本当にそうなのだろうか?
実家に暮らしていることが、そんなに恥ずべきことなのか?
誰かに頼って生きるのではなく、自分の力で生き方を模索し、もがいている。その姿を、誰が笑えるだろうか
会社員として21年、うち10年間は労働組合の委員長として職場を支え、戦い続けた
人前で話すことも、誰かのために立つことも、すべて経験してきた
それでも、退職後の世界では「実家暮らしの中年男性」というラベルでしか見られないのかもしれない
だが、今の自分は、自分で選んだ道を歩いている。うまくいかないことだらけでも、「このままじゃ終わらせたくない」と思っている
“子供部屋オジサン”というレッテルを、自分で再定義してやろうと思う
「自分の足で立つために、再起をかけて挑戦している人間」
そう名乗ってもいいじゃないか
7.これからのこと。立ち止まりながらも、前に進む
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
長く会社員として働き、労働組合の委員長としても多くの経験を積んだ
けれど退職後の生活は、決して順風満帆ではありませんでした
アフィリエイトブログを始め、デイトレードにも挑戦したけど、結果がすぐ出る世界ではなく、今もなお試行錯誤の日々です
実家暮らしでのストレス、母との関係、社会からの見え方に悩むこともある
でも、もう誰かの期待に応えるために生きるんじゃなく、自分が納得できるように生きていきたいと思っています
このブログでは、そんな”今の自分”を正直に綴っていきます
同じように悩んでいる人がいたら、「自分だけじゃない」と思える場所になればいい
そして、何かを始めたいと思っている人の背中を、ほんの少しでも押せたら嬉しいです
不器用で、遠回りばかりの人生だけど、それでも前に進んでいく
これが、元・労働組合委員長であり、子供部屋オジサンである、今の私です